歴史
本寺は妙見山神光寺の一部であったといい、百五十石の寺領を有する大伽藍でしたが、豊臣秀吉来攻の時兵火に罹り消失し、この堂だけが焼け残ったものといわれています。
東伯郡三朝町にある「三徳山三佛寺投入堂」などとともに、岩窟利用の舞台作りで、密教系であるという点ではほぼ同じ系列にあるものです。
特徴
不動院岩屋堂は、八東川の支流である吉川川沿いに位置しています。この寺院建築は、高さ約13メートル、幅約7メートル、奥行き約10メートルの天然の岩窟に調和して建てられました。
建物自体の高さは約10メートルで、幅は3間(約5.0メートル)、梁間も3間です。建物は一重構造で、前面は入母屋造り、背面は切妻造りで、栩葺(とちぶき)という方法で屋根を葺いています。
床下は長い柱で支えられた懸造であり、花燈窓があります。また、正面と東側の廻縁には擬宝珠高欄(欄干)が設けられています。
不動院岩屋堂は、鳥取県東伯郡三朝町に位置する三徳山三仏寺の投入堂と、大分県宇佐市にある龍岩寺奥院礼堂と共に、「日本三大投入堂」の一つとされています。
この寺の本尊は、伝承によれば空海が33歳の時に作ったと言われる黒皮不動明王で、目黒不動(東京都目黒区の瀧泉寺)と目赤不動(東京都文京区の南谷寺)と共に、「日本三大不動明王」の一つに数えられています。
岩屋堂地区の「書上帳」によれば、岩屋堂は大同元年(806年)に建てられたと伝えられています。中世以前、この寺は妙見山神光寺の一部であり、寺領として150石を有していました。しかし、天正9年(1581年)には豊臣秀吉の因幡侵攻によって大部分が焼失し、岩屋堂だけが残ったと言われています。
現在の堂は鎌倉時代初期の源頼朝によって再建されたと伝えられていますが、1955年(昭和30年)から1957年(昭和32年)に行われた解体修理の報告書では、室町時代初期(南北朝時代、1336-1392年)に建てられたと推定されています。